元EMO-RAY

ルール無用のアルティメット地帯。モヒカン横行中。
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主義主張と論理。
いい機会に出会ってしまったので、つらつらと真面目な言葉遊びでも。



世の中のには多種多様の主義主張が存在します。
例えば刹那主義者にとってはその時、その瞬間が至上のものであり、最終的な結果は二の次とします。
大局主義者は最終結果さえ良ければ今、その瞬間が辛かろうが我慢の価値ありと考えます。
これは価値ある瞬間を『現在』に置くか、『最終的未来』に置くかという微小な価値観のズレによって、到達する結論に大きなズレが生じる顕著な例であるといえます。


他にも宗教家は公衆道徳、宗教倫理を基礎とした概念を至上とするであるでしょうし。
民主主義者は多数決の論理を至上としています。
守銭奴は財産を築き上げることこそを至上とすることでしょう。
それが顕著な形になると、詐欺師はそのために人を騙す事さえもいとわない。


そんな多種多様な論理が『世界』というるつぼのなかで複雑に絡み合っています。
そしてそんな論理の中から取捨選択をしながら蓄積し、また発展させて自分を形成していくんですよね。


そう、我々が生まれた時は何の知識も概念も論理も、主義主張も持っていませんでした。
そして全くの無垢を基点として環境から一つづつ学んでいきます。
例えば『人を殺してはいけない』ということ。
例えば『人を騙してはいけない』ということ。
はじめは全くの無垢な状態でありますから、学んだことが自分の中で矛盾することはなく、どんどん学び続けていきます。
しかしある日『人を騙してもいい』だとか『人は殺してもいい』という意見を聞き、自分の中に取り入れようとした時に矛盾が生じてしまいます。
『人を殺してもいい』のか『人を殺してはいけない』のか、『人を騙してもいい』のか『人を騙してはいけない』のか。
そこで自分の中の情報、つまりは法律、道徳、倫理、美学、損得勘定などを総動員して、どちらがより矛盾が少ない概念なのかを吟味し取捨選択を行っていきます。
もしくは一部分だけを取り入れ、さらに自分を昇華させていきます。
そんな作業の繰り返しで矛盾の少ない自分を作り上げていく訳です。


よく『国民性』だとか『お国柄』なんて言われますが、これも考えてみれば当たり前の話なんですよね。
地域環境、時代によってはじめに学ぶこと、つまりは基盤となる概念が違うんですから。
極端な話になりますが、現在の日本では表面上は治安がしっかりしていますから人を殺すことはよくないということを基盤として考える人が圧倒的多数ですが、紛争地域や治安の悪い地域のように殺さなければ殺される危険をはらむ地域では時と場合によっては人を殺すことも止むを得ないということを基盤として考えるかもしれません。
日本で『人は殺してもいいんだ』なんて主張しても殺してはいけないという基盤のおかげで切り捨てられるでしょうし、『人を殺してはいけない』と紛争地域等で訴えても、殺してもいいということが常識となってしまっていれば一蹴されることでしょう。
基盤が違えば取り入れられる概念も違うし、切り捨てられる概念も違ってくるのは至極当然の話。


そうして環境によって自分は作り上げられていきますが、他人は皆環境が違うので対立することも出てきます。
対立してしまった場合は意見を出し合い、討論することになります。
正直この作業は自分の中の考えが確固とした言葉として表現できなければ論理として優勢なものと認められないため、そのことについてどれだけ自分の中で整理したことがあるかで勝負が決まってしまい、その討論の結果は非常にあてにならないものであることが多いと感じるのですが、それでも自分の考えが一時でも負けることが今まで歩んできた自分の歴史、ひいては自分そのものまでも否定されることに繋がりかねないためか、綺麗に反論はできないものの相手も全否定することで自分を守ろうとする光景もよく見うけられます。


そんな不毛なことをする位なら色んな意見があることを認めてしまって否定しなければとりあえず揉めることは無いような気もしてくるところですが、俺はどうにもしっくりきません。
多種多様な論理を認めるという考え方は、単一の論理のみを至上とする概念の前では矛盾するからです。
一つは単一の論理が至上であることを認めてしまえば、他の対立する至上主義的論理が存在した時にどちらが至上であるのかという点で矛盾するという点において。
一つは多種多様な論理を認める時点でその概念は至上ではないと宣言したのとほぼ同義であり、至上主義的概念に劣るという点において。
ほとんど言葉遊びなのですが、論理性という観点から見ると弱いんです。多様性を認めちゃうと。


そして俺が何より違和感を感じるのは、そういう考え方をする人もいるんだ、で終わってしまえば発展性が無さ過ぎるということ。
どうしてそういう考え方をするのかということに対して根本からの深い理解をしようとしていない姿勢の表れのように感じるんですよね。
実際にそんな姿勢なのかどうかはさておき、まぁ俺は大概の場合そういう姿勢の場合が多いとは思っているのですが。
否定が無ければ揉めないけれども、発展も無いと思うのです。


だからといってただただ否定してればいいというものでもなく。
お互いの意見を出し合い、相手の意見に少しでも認められる点があればその点は素直に認める。
その場で綺麗な言葉として反論できなかったことは無理に反論しないで自分の中で突き詰め、整理し、自分を昇華させる糧とする。
有意義な討論というものは自分を見つめなおすいい機会であり、安易に人の意見を認めてしまうことは自分を昇華させる機会をともすれば潰してしまいかねず、非常にもったいないのではないでしょうか。


「論破する自信はある」
とある人の日記に書かれていた言葉なのですが、俺はある意味では非常にカッコいい言葉であり、ある意味では非常にみっともない言葉であると思います。
悪く見ると相手に考えを押し付け、自分を誇示する自信があるともとれます。
よく見ると自分の中で全ての可能性を模索しきった、自分を見つめなおす作業を十分と行ったという自信の表れともとれます。
要は自分自身に凝り固まらず、柔軟に意見を取り入れ自分を昇華させていくことこそが肝要ではないかと思うのです。


とはいえ、実際問題として自分が正しいと信じないことには生きていけないというのも事実。
自分こそが正しいと信じつつも、自分の中の僅かな綻びでも見落とすことなく、また目を背けることなく自分を律するというのはまた矛盾を含む話。


これだから論理は面白い。
| 今村 涼次 | 真面目な話 | 17:25 | comments(5) | - |
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>これだから論理は面白い。

これだから論破は面白い。に見えた(*´ω`)

どっかにいたね「はい、論破。」で締めくくってた人。。。

自分は言葉遊びは好きですが、途中から押し付けになっていったことをよく後悔してたり_| ̄|○
それでどれだけ人間関係悪くしたか(´・ω・`)
| ざっく | 2006/04/25 11:17 PM |
そういえば涼さまのHPはどこにいってしまったのですか?

MIXIのコミュニティで議論するトピックが立った場合、あまりにも「自分と違う意見を全く認めよう」としなくて、「自分と違う意見は全否定」する人が多いね、という話を友達としていた時に思ったことなんで、どうして否定するんだろうね?という流れで書いたけど、「否定を受け入れない」っていう感じになってしまったかも。

そういう考えもあるんだ、ということをまず認識する、その後それを「でもこういう点でその話はおかしい」と否定する、のは有りだと書きたかったのです。多分…。

「論破できる」って確かにきちんと使える人が使えばかっこいいんですけどねぇ。うーん。その前後関係を書こうと思ったけど、長くなりそうなので。やめる。(謎)
| えす | 2006/04/26 12:13 AM |
難しいこと考えてるんだなー。

でも、「多様な論理を認めるのは単一の論理を至上とする」のと矛盾するんだろうかー。

「多様な論理を認める」、なんでも包括して、それが単一の論理、思想、考え方だと捉えることは、、、むー、まさに言葉遊びー

悲しいかな、わしはまさしく多様性を認める人間で、「そういう考え方もあるんだ」と思いがちである

実際いろんな人いるしなー

もちろん議論はするが、ま、「責任」が嫌いなわしは自分の意見はいいつつもそれをある程度で留保するのさー

言うとおり、時代、環境によって形成される考え方はまったく違うし、それを議論のタネにはしても、それに対して論破しようとするのはおこがましく、野蛮でもあると思うのだー

今自分が正しいと思ってることであっても、昔あるいは将来においては正しくないことと思ってることもあるやろしねー

書いてて空虚な気分になってきたぞー

一意見を書いてみたが、ま、酔っ払いながらやし、シラフで↑読んだらまた違うこと書いちゃってるかもなー

というのもまたひとつであろうかと
| | 2006/04/26 12:37 AM |
>ざっくさん
経験上「論破した」って豪語する人に限って論理に穴があるか、国語力に問題がある気がするのは気のせいなんでしょうか?


>えす
HPはプロバイダを変更した時に露と消えました。さようなら俺のHP。
大丈夫、否定を受け入れないという風にはとってないですよ。
人の意見を受け入れる=興味なく適当にあしらう、になってる人が多いように感じてるんで書いてみただけで、正直別件です。
頭の中を整理する機会をありがとう。


>きよさん
あー、やっぱ表現力不足ですかね、あの文。
簡単に言うと『色んな意見があってもいい』という『自分の意見が存在する』ことが矛盾しているわけです。
『自分の意見』が正当であるならば、『これこそが至上であると謳っている意見』の至上という部分の正当性を認めていない訳で論理破綻を起こしてしまう、という完全なまでの言葉遊び。
VIVA!ロジックの恐怖。
とはいえ実際問題としてある程度は多様性を認めないことには話にならないんですけどね。
| 涼 | 2006/04/26 2:18 AM |
「論破した」って言うのは本人の中では論破したから言うのでしょうね、つまりある観点において理詰め完。でも別の観点から見れば論理に穴がある。
いろんな観点から物事を見ると面白いですね、屁理屈だと言われることも理屈に思える(*´ω`)
「屁理屈も論理破綻を指摘できないなら理屈」そんな屁理屈野郎な私(*´Д`)y−~~~

国語力に問題があるだろうというのは同意。
| ざっく | 2006/04/26 11:57 PM |









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